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最終更新日 2000年04月14日 |
【特集・妻木晩田遺跡】古代ロマンにせまる |
淀江町と大山町にまたがる、総面積156haという日本最大の弥生遺跡。 |
場所 | 【淀江町】【大山町】 |
地区 | 洞ノ原地区・妻木山地区・妻木新山地区・仙谷墳墓群・松尾頭地区・松尾城地区 |
総面積 | 156ha |
2000年の永い眠りから目覚めた、日本で一番眺めのいい遺跡を、私たちは『海と山の王国』と呼ぶ。 開発の道へとほぼ傾いていた妻木晩田遺跡を救おうと、負け戦を覚悟のうえで奔走した、たのもしい姐御がいた。米子市出身の考古学者、佐古和枝さんがその人だ。遺跡のエキスパートに”奇跡の発見“とまでいわせた、妻木晩田遺跡の凄さとは何か、佐古先生にうかがってみた。 ![]() これほどまでに巨大な遺跡が まるごと残っていたことの驚き 弥生時代の代表的な遺跡は、ほとんどが平地にある。それだけに開発が容赦なく進み、全体像がつかめない。まるで難解なジグソーパズル。しかも欠けたピースの方が圧倒的に多い。 しかし、妻木晩田遺跡はまるで違った。日本海を間近に望み、弓ヶ浜半島、島根半島、さらには中海まで見晴らす小高い山の上にあったお陰で、2000年間、人の手にいっさい壊されることなく、完璧に近いかたちで姿を現わした。全国一の規模で知られた吉野ケ里遺跡(佐賀県)の、1.3倍ものスケールだ。 そのうえ全体の1割を掘っただけで886軒もの建物跡が見つかった。邪馬台国説のある近畿地方でも、多くて100軒程度だというのに。 これだけの大発見が、なぜか華々しい全国デビューを逃している。 それというのも、当初は調査地区ごとに別々の名で報道され、まさかひとつの遺跡とは確認できていなかったから。それほどまでに前例のない巨大さだ。 佐古先生いわく「日本列島で、これほどの遺跡の発見は今後も期待できないと思う。とにかく残っていたことが奇跡」なのだ。 ![]() 卑弥呼の耳にも届いていただろう 技術者集団のとてつもないパワー 豊かな田園風景をたたえる目前の淀江平野には、そのむかし潟(ラグーン)があり、天然の港があったと考えられる。この地では、九州の縄文土器や、3000年前にあたる朝鮮半島の土器片もすでに出土している。このことから、古代人たちが日本海へと船を漕ぎ出し、活発な交流をおこなっていたことが容易にうかがえる。 妻木晩田の繁栄ぶりも、こうした古来からの交流がベースにあってのこと。それを裏づけるように、朝鮮半島製、北部九州製、地元製に内訳される、200点というずばぬけた数の鉄器が出土している。 「つい先日、近畿地方の新聞に”弥生の遺跡から鉄が大量出土“の記事。いったいいくつだろうと見たら20点。北部九州以外では10点でも大量、20点だと超大量といわれる。200点なんて一桁違うわけ」 大規模製鉄がはじまる奈良時代ほど大がかりではないが、床面の土が焼け焦げた製鉄場の跡も見つかっている。弥生時代の製鉄はとびきりの最新技術。妻木晩田の人々はもの凄い自力をもっていたのだ。 「きっと卑弥呼は妻木晩田のことを知っていて、”あそことは仲良くしといた方がいいぞ“っていってたかもしれないね」 日本列島のどこかに邪馬台国というクニがあった時代。鳥取県の西部に大きな勢力をもつクニがあり、その中枢にいたのが妻木晩田。まさに古代ロマンだ。 ![]() 考古学者がこぞって絶句 常識をひっくり返される恐ろしさ 妻木晩田遺跡は、とにかくスケールが大きい。従来なら、ひとつの遺跡として十分に認識される広さが、ほんの一地区にすぎないのだ。しかも、あれほど広い範囲で、王様の居住地、一般の居住地、墓地、倉庫群、生産の場‥‥という具合に、きちんと計画的に構成され、ひとつの大きなまとまりとなっている。 現代でいうところの計画都市だ。この発見は、考古学者にとってゾッとする話らしい。 「私たちは今まで、一軒の家の応接間だけを見て”立派な家ですね“っていってたかもしれない。弥生時代の都市はもっとスケールがでっかいんだと、これまでの認識を最初からやり直さなきゃいけない恐ろしさを感じる」という。 王一族の墓地から出土した大きな四隅突出墓のまわりには、一辺がわずか1mほどの子供たちのお墓が築かれている。これには、目にしたすべての考古学者が絶句した。なぜなら、子供は大人のお墓に添えられるのが普通。それなのに、一人前に独立したお墓をつくり、ちょこんと四つの角までつけている。まさに新発見。妻木晩田の人々は、四隅突出墓という形にこだわっていたのだ。 この四隅突出墓は、お隣は出雲の王様のお墓というイメージが強い。つまりは、出雲的世界のシンボルなのである。ところが、ご当地の出雲で見つかっているもっとも古い四隅突出墓は、弥生時代後期の中頃のもの。今のところ、妻木晩田遺跡をはじめとする鳥取県の方が、早い時期に築かれていたことになるという。「これまでいわれていた出雲的世界っていったいなんなのか、もう一度見直さなきゃいけない」 妻木晩田遺跡が投げかけた問題は、常識を根底からひっくり返すくらいの大発見なのだ。 その重要性を物語る、こんな出来事がある。開発か保存かで揺れていたころ、意外にも文化庁から全面保存の要請が舞い込んだ。しかも、国史跡指定と補助金を提供する用意があるというのだ。国史跡の指定を受けるには、自治体側から申請をして、何年もかかって、ようやく実現するのが通例。今回の文化庁の積極的な動きは、前代未聞の珍事。特例中の特例なのである。 ![]() 1999年12月22日、異例のスピードで国の史跡に指定された妻木晩田遺跡。これからの課題は、日本一の遺跡にふさわしい整備と活用だ。「鳥取県民でよかったと実感する、あの広さ、あのロケーション。私は”日本で一番眺めのいい遺跡“だと自慢している」と、妻木晩田にぞっこんの佐古先生が思い描く、そのプランとはどんなものだろう。 ![]() 他の遺跡に類を見ない 無限の可能性をムダにしたくない 目の前に広がる日本海。その遥か向こうにある大陸。背後には神々しいまでの大山がそびえる。妻木晩田の人々は、この感動的な景色があったから、この場所に住んだ。そう理屈なしに納得させられるロケーションは、決して考古学に興味のある人たちだけのものではない。 国境も国籍もなかった2000年前、ここは日韓交流の拠点だった。人々は自由に行き来し、自然とともに生き、そのなかでいろんな知恵や技術を生み出してきた。「それにひきかえ、今の私たちはどうだろう。本当に大切なものは何か。本当の豊かさって何か。そのヒントを、原点ともいえるこの地に立って、2000年前の人々からいろんなヒントを感じとって欲しい」のだ。 国際交流や自然環境を考える人、芸術活動をする人、とにかくいろんな分野の人たちが集まってくる場所。現在、そして未来について考える拠点にして欲しいという夢がある。 さらに、この地に集まるみんなで草木の手入れをしながら自然に親しみ、豊かな森を復活させること。地元のお年寄りを先生にして、子供たちや都会の人たちに、この地に伝わる知恵や技術を教える”大山塾“を開くこと。歴史と自然の両方を体験学習できる、豊かな里山にしたいのだ。 とめどなく湧いてくる構想のなかには、すでに動き出しているものがある。ボランティアガイドの養成講座”むきばんだやよい塾“がそれだ。自分たちの力で妻木晩田遺跡を案内したいという声を受けて、昨年10月に開講。この春には、心強い50名のガイドが誕生する予定だ。 ![]() 日本中どこを探しても見当たらない たったひとつの生きた遺跡博物館 建物の復元にも、あたりまえのことは望まない。全部をいっきに建ててしまうなんてもったいないことはせず、当時の道具を使って一軒ずつ、じっくり復元させて、建築途中の復元住居も見せて欲しいという。「もちろん作業の様子を見学することができるし、参加もできるようにする。建物を建てることの大変さや、完成したあとではわからないところを発見できるようにね。これも情報発信です」。佐古先生のいう、これが動く”野外建物博物館“だ。 妻木晩田遺跡の周辺には、縄文時代から奈良時代にかけての重要な遺跡が点在する。 絵画土器が出土した角田遺跡(この絵は吉野ケ里遺跡に復元された望楼のモデルになっている)。日本最古の彩色仏教壁画で知られる上淀廃寺(国史跡)。九州以外で唯一の石馬(国重要文化財)が出土した石馬谷古墳。金銅製の冠など豪華な副葬品が発見された長者ケ平古墳。壮大な切石造りの石室をもつ岩屋古墳(国史跡)など、そうそうたる内容だ。「たくさんの貴重な遺跡を、これだけまとまって見てまわれる充実した歴史的環境は、日本のどこを探しても見当たらない」 妻木晩田遺跡を中心としたこの空間自体が、まさに広大な”遺跡博物館“となるのだ。 弥生人の素晴らしいプレゼントにとびきりの整備と活用で応えたい 「私たちはいま、あの遺跡をどう活かせるかを試されている。これまでにどこかの遺跡がやってるような整備の仕方で済ますなんて、妻木晩田の人たちに申し訳ない」 名だたる遺跡がうらやむという、ほかのどこにもない素晴らしい魅力を、私たちは、いったいどれだけ引き出せるだろうか。 全面保存の決定も、国史跡の指定も、ここまで来たらほんの通過点にすぎないだろう。「妻木晩田の弥生人たちに堂々と胸を張れる、そして、ゴルフ場開発に期待されていた方々に納得していただける、全国のお手本になるような新しい整備と活用を実現することが、本当の意味のゴール」なのだ。 2000年の時を超えて、まるごと姿を現わしてくれた妻木晩田遺跡について、まるごと伝えられないのが、なんとも歯がゆい。「ひと言ではいえないほど重要なんです」これが、佐古先生の最初の言葉だった。 |
プロフィール | ![]() |
【佐古和枝さん/さこ かずえ】関西外国語大学助教授。米子市出身。京都市在住。「むきばんだ応援団」副団長。妻木晩田遺跡のデータと保存活動をまとめた「海と山の王国」(海と山の王国刊行会)編者。執筆や講演など超多忙。 | |
http://www.lares.dti.ne.jp/~sako | |
関連ページ(1) | 妻木晩田遺跡ホームページ |
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掲載担当者 | staff |
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